かけがえのない一瞬

三輪亮介の日常ブログです。ここでは仕事の近況・日々の想いなどを綴りたいと思います。

スカイクロラ

戦争を知らない大人たちに捧げよう。
彼らの過ちは、三つある。
子供たちが自分たちから生まれたと信じている。
子供たちより多くを知っていると思い込んでいる。
子供たちがいずれ自分たちと同じものになると願っている。
それら妄想の馬鹿馬鹿しさといったら、
戦争よりも悲惨なのだから。

スカイ・クロラ森博嗣/冒頭文より引用



日本テレビ開局55周年記念作品
スカイ・クロラ
 

正直な感想としては、先日紹介したフジテレビ作品『ホッタラケの島』に負けてしまった印象がある。かなりの宣伝だったと思うが、日テレの“真面目さ”とフジテレビの“エンターテイメント”、両局の報道姿勢がそのまま作品テーマに反映され、結果、大衆向けのフジに軍パイが挙がったというところだろうか。

監督に押井守を使用したことも皮肉な結果を招いていると思う。
個人的には好みの演出をしてくれるが、過去の作品を観ても、彼は哲学的過ぎてよくわからないといった感想を持つ人がほとんどだ。小説自体も言い回しは読み易いものの、命題は至って哲学的である。それに合わせてのキャスティングだったのだろうが、小説の中の主人公の心情(心の声)をアニメだと極力(というか、すべて)排除し、肉声のみにしなくてはならない。それでは、余計に観ている方は主人公の心の流れについていけなくなる。これが2つ目の敗因ではないだろうか。

しかしこれはあくまで興業的な評価であり、個人的には森博嗣が描いた小説『スカイ・クロラ』が、現代に生きる僕らに提示してくれたものは先の作品よりも多大だと感じる。
作品の世界観、設定などは上記のビデオに委ねるとして、感銘を受けたのは「子どもと大人、それぞれから見る生と死」、その命題たちだ。以下、小説から引用。映画では語られていない主人公の心情だ。
 

世の中のほとんどの差は、直接か間接かの違いなのだ。

目覚めたとき、何故いつも同じ世界なのか、不思議でならない。

大人になることを、一つの能力と捉える、
そして、子供のままでいることは、その能力の欠如である、と解釈する。
そういった考え方に立脚すれば、僕たちみたいな子供を見下すことができる。

でも、大人になる、というのは、つまりは老いることであって、
山から下ること、死の谷底へ近づくことではないのか。
どうなんだろう…。
人は本当に死を恐れているのだろうか?
僕はいつもそれを疑わしく思う。僕の両親や、近くにいた大人たち、そして老人たちを見て、
それを考えた。人は死ぬことを恐れているのだろうか?彼らは怯えて生きているのだろうか?
どうも、そんな兆候を僕は発見できないのだ。

子供のままで死んでいくことは、
大人になってから死ぬことと、
どこが違うのだろう?

抵抗することが生命の証なのだ。たとえ、その行為が繰り返し無駄になったとしても。
生きていると信じるには、何かに抵抗するしかない。

人の顔は簡単に殴れるのに、自分の顔は殴れない。
自分のものになった瞬間に、手が出せなくなる。
自分のものは何も壊せなくなる。
僕は、自分を壊せない。
人を壊すことはできても、
自分は壊せない。

彼は大人で、戦争を知らない世代だったのだ。
僕たち子供の気持ちは大人には決してわからない。
理解してもらえない。
理解しようとするほど、遠くなる。
どうしてかっていうと、理解されることが、僕らは嫌なんだ。
だから、理解しようとすること自体、理解していない証拠。

 


この『スカイ・クロラ』を読んだ後、僕は森作品を2つ読んでいる。これはもう、ハマっているとしか言いようがない(笑)単純だ。なぜ??これは僕がマンガを描いているテーマにとても近しいと感じたから。いわゆる好みなんです、テーマとか、言い回しとか。だから客観的に★も付けられなかったので、もし、上記の言葉に少しでも何か感じたら、是非読んで見てください。映画よりずっといいです。映画観てからでもいいです。
ただ、言っておきますが、爽快感はないですよ(笑)!

ちなみにこのスカイクロラはシリーズものなんです。ストーリー順に並べると…
ナ・バ・テア
『ダウン・ツ・ヘブン』
『フラッタ・リンツ・ライフ』
『クレィドゥ・ザ・スカイ』
スカイ・クロラ
 
僕は『フラッタ・リンツ・ライフ』も読んだんですが、『スカイ・クロラ』の方が名言が多いような気がしました。
機会があったらシリーズ通して読もうと思います。