かけがえのない一瞬

三輪亮介の日常ブログです。ここでは仕事の近況・日々の想いなどを綴りたいと思います。

今日も風が吹く

たとえば今日の朝焼けを

僕らは地図のように記すことはできない

 

たとえば今日の気持ちを

僕らは写真のように残すことはできない

 

 

 

 

薄らいでゆくもの

 

移ろいゆくもの

 

流れゆくもの

 

 

 

そういうものに僕らは囲まれている

そういうものを僕らは掴みたがっている

 

 

 

 

風が吹く

 

 

 

 

 

目の前の枯れ葉はどこかに飛んで行っただろう

 

その眼前に起きる当たり前の出来事には

なんの疑問も持たずに歩けるのに

 

どうして枯れ葉が遠くに飛ばされた途端

僕らは少し切なく見送ってしまうのだろう

 

 

 

 

 

 

今日も風が吹く

 

魚座の孤独

すべての時間を

何に使うのか 何のために使うのか

誰のために使うのか 使ったあとにどうするのか

 

時間は決して戻らない

時間は消える

 

そして時間は消していく

 

だから写真を撮る

絵を描く 音楽を聴く

話をする 話を聴く

 

大きな波の流れに抗うように

僕たちは必死に泳ぐ小魚のようだ

時に群れ 時に逸(はぐ)れ 時に留まる

 

僕が後悔したことはどこにも行かないのに

僕が愛した人はどこへ行ったのか

 

失くしてしまいたいものばかり残っていて

失いたくないものばかり遠くへ行ってしまって

 

僕は時間という波に流されながら

今日も小さく泳いでいる

 

時代

「時」は僕らの意思に関係なく
川のように淀みなく流れていくが

「時代」は
川のように自然と流れるものではない

人が作るものだ

他人同士の各々の意志と意志の錯綜の中に
偶発的に しかし必然的に
築き上げられるものだ





「1950年代に生まれたかった」

そう 高校生の頃によく思った

1960年代の学生たちのように
この世界を変える意志を高らかに叫び
夜な夜な行きつけの喫茶店
未来の国について憂い 朝まで語らい
ビートルズのライブで
LOVE and PEACEの風を感じたかった
荒い映像を流すテレビにしがみついて
遥か彼方のアポロに思いを馳せたかった

髪と髭を伸ばし
リーバイスの646のベルボトムを履き
アコースティックギターを持って
愛する人に曲を作りたかった

「新しい時代」をその時代に生きる人たちが
確かな意志を持って作ろうとしていた時代





そんな時代に生きた彼らの背中に
熱烈に そして滑稽に憧れた

僕は僕なりの時代の中で
僕なりの意志で その時々で強い意志を持って
大きな桑を振り上げてきた

大きなうねりを作れた時もあったし
大きな波にかき消されたものもあった

それでも僕は「時代」を生きるのはなく
「時代」を作る皆の一人でありたい





「時」は2020年を迎えている

「時代」はどんな時代だ

何に怒っている 何に喜びを感じている
足りないものはなんだ
皆が拳を上げるロックンロールはあるか
愛は まだ人々を救っているか
人々は 愛をまだ信じているか

魂を燃やしているか
ときに自分自身のために
ときに誰かのために




どんな時代を目指そうか




なあ

大きな桑はあるか

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時は2022年を迎えている。

2年前、自分の見上げた景色。その答え合わせはできたか。

人は相変わらず、傷付けあい、また、助け合い、裏切られ、それでもまた、愛し続ける。「こんな時代だから」ではなく、「こんな時代でも」という言葉が、僕の中では大きくなった時間だった。

いつか、今の若者たちは「コロナ世代」なんてラベルを背中に貼られてしまうだろう。僕らや、昔の人たちがそうであったように。

こんな時代でも、いや、どんな時代でも、変わらないものがある。

そういうものを見つけた2年だったように思う。

あなたが文章を書き続ける理由

今日もたくさんの文字で世界は満ち満ちている。

新聞、雑誌、ブログ、SNS・・。

ビジネスや目的を持って書いている方もいる一方で、趣味や日記のような感覚で文字を起こしている人もたくさんいる。

僕の周りにも、判を押したような日常の繰り返しに、どうにかなりそうなその気持ちを、どこにも行けないその気持ちを、どうしようもなく文章にぶつけている人が何人かいる。

ある一人は、「なぜ書くのだろう」とい自問に、

「何かが変わるかもしれないから」と自答した。

その「何か」は、「自分」かもしれないし、「周り」や「環境」かもしれない。

そしてその変わるかもしれないというXデーは、誰も知らない「いつか」だ。

 

そう考えると、パソコンに打ち込まれた自分の文章の拙さに泣けてきたと言う。

まとまりのない文章。浅はかな意見。正解なんてないのに、自分の文章が合っているか不安になる(文法的にも、構成的にも、内容的にも)。

 

それでも書き続けるのは、

「これしか希望がないから」だと言う。

 

「書いていれば、いつかきっと誰かが、何かが救ってくれる」

そう思って今日も書いているのだと言う。

 

 

 


思う。


きれいな文章じゃなくていいし、まとまりがなくてもいい。

そんなものより、いつだって人の心を揺さぶってきたのは、

「どうしようもない衝動」や「嘘偽りのない純粋な何か」、「歌詞にもならない叫び」のようなものだったはずだ。

 

誰かの役に立たなくてもいい。

目的なんか持たなくたっていい。

立派な文章でなくてもいい。

誰かのためになんか書かなくてもいい。

 

書かずにはいられないその衝動は、いつか消えてなくなってしまうもの。

だからこそ、今とても価値のあるもの。

世界に絶望しながら立ち尽くすことは容易い。

それでも止まることなく書き続ける、歩み続けるあなたはすごい。

言葉にならなかったら、思いきり叫べばいい。

 

誰も知らない、いつかの自分のために。

 

大丈夫。

 

思いきり、書いてほしい。





自分自身を信じるしかないんだ

やめてしまえば

それまでなのだから



by ジャマール



NHKハイビジョンスペシャル『トップ・デザイナーはこう育てられる』(初回放送2001年)。
アントワープ王立芸術アカデミー・ファッション科。世界中から集まった
クリエイターの若者たち、その創作に打ち込む姿を密着取材した番組だ。
入学者は60名ほどで、進級試験でふるいにかけられ、卒業できるのはほんの1割程度。
技術不足に苦しむ者、自分の独創性を探す者、皆、先が見えない中で、ただ毎日自分を見つめ、同時に手を動かしてゆく。止まって考える時間はないのだ。
何が正解かわからなくなる。そもそも正解などないのかもしれない。
でも、どこかで自分を納得させなくては、その道は
歩いていくにはあまりにも果てがなさすぎるように思える。

そんな取材の中、ある一人の若者が、インタビュアーに語った言葉。

「自分自身を信じるしかないんだ

 やめてしまえば 
 それまでなのだから」

作業をしながら番組を流していた僕の目を留まらせたのは、
この「やめてしまえば」という表現だった。

「あきらめてしまえば夢は終わる」ではなく、
「やめてしまえばそれまでなのだから」。

「あきらめる」とか「あきらめない」とかの「気持ち」が先立つのではなく、
「やめる」か「やめない」かという「行動」が、重要だということだ。
そして、その果てない道を歩み続けるためには、「自分を信じる」しかないということだ。

そして、この言葉を、まさに彼は自分の作品に向かいながら、手を動かしながら話していたのだ。

そうだと思う。
僕らは手を止めたら、もう何もその先には生まれない。
その瞬間に止まる。

「手を動かせ
 拠り所がないことなんてない
 あなた自身が何よりの拠り所だ」

そんなふうに聴こえた。
正解も何もない中で、不思議と「これだ!」と思える瞬間がある。
手を動かそう。
やめてしまえばそれまでなのだから。

紙さまどうかよろしくね

真っ白な紙さまに向かうときは

いつだって腰が重たくなるものさ
 


とても体力がいることだし

とても集中力がいるものだから
 


いつも音楽さんは僕と一緒だけれど

今日のところは

音楽さんもお留守番をしてもらっている
 


連れて行けるのはコーヒーくんだけだ
 


やっと電池を入れ替えて動き出した時計ちゃんは

昔のリズムで今日を刻んでくれている

ちょっぴり大きな音だけどね


 
鉛筆のヤツとはもう長い付き合いさ

わかっているだろ
 


紙さまどうかよろしくね

水晶玉の石

若い子ってさ

そんなひとくくりで話し始めてしまうけど

今日はこの言葉から始めたい



「終わる」ということが想像できてない

「もう二度ともとに戻らない」ということも



なぜだろう


彼女は「リセットしたい」と呟いていたけれど

「リセットできる」と

どこかで思っているのだろうか

そんなことはありえないのに




小学生の頃だったろうか

川に連れて行ってもらった夏休みのある日

父は河辺で平べったい石をすっと選んでは

腕が水面に水平になるようなサイドスロー

素早く石を滑らせるように投げた



石は川に沈むことなく水面の上を3歩4歩と

飛び跳ねるように遠くに消えて行った




ドキドキした

不思議でならなかった




僕は父の投げ方を一生懸命真似をしてみた

投げる瞬間

何度も父が投げた石の軌道をイメージをしたけれど

何度やっても石は乗り気にならないようで

ポチャンと一度だけ音を立てて

沈んで行ってしまった



僕は父にどうやったらできるのかせがんだ

すると父は

「平らな石の方が成功しやすいんだよ」

と教えてくれた




僕はすぐに自分の足元を必死に探し始めた

そして平らな石を探しては何度も投げた

何度も 何度も

そのうち人差し指が石の摩擦で痛くなって来た



そのうち たしか

僕は水切り遊びを上手にできるようになったと思う

でもそれよりも何よりも僕の記憶に覚えているのは

成功した瞬間の風景ではなくて



水切り遊びも終盤に差し掛かった頃に見つけた

一つの石のことだ



それは平べったいというよりは

どちらかというととても球体に近いものだった



こんな見事な球体の石を僕は見たことがなかった

まるで丸い水晶玉が

そのまま化石化したような形だった



僕は旅行中ずっとその石を持っていたのだけれど

最後の日にどうしようもない欲求が

僕の心の中に充満して行った




「この石で水切りをしたら一体何回跳ねるだろう」




決意と躊躇が足元に寄る川の水のように

何度も行き来をしたが

結局最後は父を真似た渾身のサイドスローを決めた



どこまでも跳ねていく頭の中のイメージとは裏腹に

水晶玉は勢いよく水面に当たると

そのままの勢いで川の中に沈んで行った





激しい後悔が襲った





僕は急いで足元に転がる石たちの中から

もう一度水晶玉を探そうとした

似たような形のものは片っ端から拾って行った



やがて帰る時間も差し迫って来て

両親は諭すように遠くで僕の名前を呼んだ

僕は目ぼしいものをいくつか選んで

急いでポッケに入れた



家に帰ると

机の中の宝物箱の中にその石達をそっとしまった

夜毎にその箱を開いては

石達を手に取ってみたけれど

やはり僕の頭の中にはいつも

あの水晶玉のことがあった





なぜ投げてしまったのだろう





夜になると僕は何度もそのことばかりを考えて

後悔を拭うように寝返りを打っていた





そんな記憶がある





お気に入りの石を

川に投げてしまったあとに

同じようなものを探しても

もう二度と見つからなかった気持ち



それはそのまま人との出逢いや別れそのものだと

大人になってから思った





そんな思い出や記憶が彼女にはないのだろうか




わからない



わからないけれど

少なくともこれだけは彼ら彼女達に言おうと思う




チャンスは何度でもある




けど

失ったらもう二度ともとに戻らない

もしもう一度手にしたとしても

それはもう別の石だ